NHKプロジェクトXの番組でとりあげられた舞台や主人公を、時々訪ねたなかで、私自身が最も感動的な内容の番組の一つと思いましたのが、上記のテーマのときでした。
平成13年3月6日のプロジェクトXは『襟裳岬に春を呼べ〜北の家族、奇跡に挑んだ半世紀』という、実に半世紀にわたる襟裳の森づくりの番組でした。
太平洋を望む襟裳岬の景観は日本で最も雄大な岬といわれます。この襟裳岬は昭和49年レコード大賞受賞曲になった『襟裳岬』を歌手森進一が歌って一躍全国的となりました。その前は、歌手島倉千代子が「風はヒュルヒュル波はざんぶりこ」と歌った『襟裳岬』も思い出されます。
番組は、「襟裳の春は 何もない春です」の部分を歌う森進一の『襟裳岬』が流れて始まります。そのころ、襟裳の人々は「襟裳砂漠」と呼ばれた赤茶けた荒れ地を森にしようという壮絶なドラマが進行していました。襟裳岬付近に住む昆布漁を営む漁師とその家族が、過酷な気象のなかで、村を捨てずに自然と故郷を取り戻す半世紀にわたる壮絶なドラマが森つくりのリーダー飯田常雄さんの家族を軸に放送されました。
番組を見終えて、その感動を抑えられず、早速、リーダーの飯田常雄さんに感動をいただいたお礼に添えて訪問の意を電話と手紙で伝えました。飯田さんの奥様が主人からの言葉として、交通事情の心配のない6月の訪問がいいのではとのことで、6月になるのを待ちかねて襟裳岬を訪ねました。羽田で帯広行きの最終便に搭乗、緑でパッチワークされた一帯に茶色のパッチがはめ込まれたような帯広平野が眼下に広がってきました。
帯広平野の茶色のパッチは、農業用のセスナ機のためだろうと思っていましたら搭乗した飛行機が旋回しながらそこをめざして降下して、ついに茶色のパッチに着陸してしまいました。そこから、レンタカーで3時間あまりの襟裳岬に向かいました。
明治時代、地元の人々は木を伐採して燃料として暖をとりました。長年の伐採で、緑がなくなり砂漠化し『襟裳砂漠』と呼ばれるようになります。襟裳砂漠は緑のまったくない荒廃した赤土の大地と砂浜が広がり、食卓まで砂が舞い込み、いやでも砂が口にはいる状況でした。土が海に入り、頼みの昆布は『泥昆布』と酷評され商品にならず、数キロ離れた畑で採れたカボチャ、芋が主食になっていました。
襟裳は風速10メートル以上の日が300日近くあり、暖流と寒流がぶつかるために霧を観測する日も100日以上になります。
そんな厳しい環境の中で、故郷を捨てるか、子供たちの未来のために襟裳を残すかの葛藤のなかで、若い漁師たちが立ち上がり、砂漠を森に変える戦いが始まりました。砂漠化した大地に風の強い日が毎日のように続く。「用意した食事に新聞紙を掛けておかないと砂混じりの食事になった」と、襟裳砂漠時代当時を語られました。
番組のなかで最も記憶に残った感動的な場面を、飯田さんご夫妻への確認のインタビューを重ねて記憶のままに紹介します。
日常の生活の困難に、さらに深刻な問題は目の前の海のことでした。漁が出来ない若者は小樽や札幌に出稼ぎにでますが、後に森づくりのリーダーになる飯田常雄さんは、その出稼ぎ先で後に奥様になられる雅子さんと出会われます。飯田さんは出稼ぎから帰り雅子さんのことが気になりながらも言い出せない事情がありました。そのころの襟裳の親は娘たちに「絶対に襟裳のなかでは嫁に行くな」と言われていました。
しかし、半年後、そのころの小樽〜襟裳間の交通事情から丸一日かけて雅子さんは飯田常雄さんを訪ねます。そこで、雅子さんは驚くべき光景に絶句されます.道行く人は頬被りをして、風に背を向け、土地は砂嵐が吹き荒れる砂漠で、青いはずの海は赤い。
出稼ぎの時に、無骨で、まじめで酒が一滴も飲めない飯田さんに好意を抱かれていた雅子さんは、飯田さんの「この海と襟裳の地をいつか青い海と緑の大地にしようと思う」という言葉に、結婚を決意されます。
父親の反対を押し切って襟裳に嫁がれた雅子さんは、襟裳の生活が想像以上に厳しい状況が続きます。ある日,義父の万吉さんが小樽の雅子さんのお兄さんからの電報を渡します。「ハハキトク」〜雅子さんが小樽に帰れるようにとの計らいの嘘の電報でした。義父は「本当なら急いで帰れ、嘘なら誰にも言わないから嘘と言ってくれ」と雅子さんに迫ります。この場面は感動的です(VTRは図書館にもありますので一度見てください)。NHKの番組作成のなかで初めて知らされた常雄さんは大変驚かれ、雅子さんの存在がいかに森作りで支えられたか感謝されたとのことでした。番組の中では「父ちゃんは日本一です!」と語られる雅子さんの言葉を聞く常雄さんにカメラが近づいて映し出されます。
しかし、飯田さんの森づくりと、冷たい海で家族のために僅かな昆布を拾う姿に励まされ、雅子さんも「襟裳砂漠」で森づくりに出られます。
風の強い中、苗が根付かず、種が飛ばされ作業員を愕然とさせることばかりでした。専門の大学教授の指導も全く及ばずのなかで、試行錯誤が繰り返されていきます。いつ投げ出してもおかしくない状況で、ついに一筋に光が差し込むような状況が起こります。
飯田さんに襟裳の森を案内していただきました。森を歩きながら同行していただいた営林署の方が飯田さんの偉大さを語られにました。種が風で吹き飛ばされないように、襟裳の人たちが「ゴタ」と呼ぶ雑海藻を、種の上に置く作業に飯田さんは率先されたとのことでした。この「ゴタ」は腐って強烈な悪臭を放ち、蛆も湧く状態を飯田さんは素手で運んでリーダーシップを発揮されたと話されたとき戦慄が走りました。地面に敷いたゴタの間から草の芽吹きが確認できたとき、「これで絶対大丈夫だと」確信されたそうです。当時はビニール手袋といった気の利いたものがなかった時代です。
飯田さんの家は光がたくさん入り込むように窓が広くたくさん取られていましたが、窓から海を眺めながら、当時の砂嵐の吹き荒れる状況を語られました。
半世紀かけて作られた森で、番組でも飯田さんが腐葉土を手に苦労を語られましたが、番組を再現されるかのように腐葉土を私の手に取ってくださいました。枯れ葉が朽ちて腐葉土になるまでは20年ほどの歳月を要するとのことでした。下坐業の出来ないをリーダーは真のリーダーではない、そんな気持ちで襟裳を後にしたときは、九州より1時間半ほど朝を早く告げた太陽が沈み掛けていました。
番組では、途中で長男の英雄さんが父親の必死の取り組みに森づくりに腹を決めるシーンなどは、”後ろ姿で育てよ”を教えられます。最後の英雄さんと英雄さんの長男直宏君が昆布漁に出る船を飯田常雄さんが見送るシーン、みんなで歌う「襟裳の春は世界一の春です」の歌声は最高の感動的な場面です。
厳しい環境と困難の連続のなかで、半世紀の歳月を掛けて赤茶けた砂漠を森に変えた取り組みに、私たちの一人一人の人生も半世紀かけて自分の森を作るようなものではないかと思うことでした。
森に一つとして同じ森がないように、自分自身の森もまさに「世界に一つの森」。
自分自身の森は人との関わりの中で作られます。「私らが漁師だからって、海のことだけ考えればいいと言うことではなくて、山が荒れると海が荒れるんだということをね、40年やって頭の芯からそう思うんですよね」と語られる飯田常雄さんの言葉は、人との関わりで自分の森を作る私たちには、自分だけよければではいけないことを考えさせられます。
昆布は胞子が岩に根を下ろす形で成長していく。泥が流れ込む環境下では昆布は育たない。森が出来、昆布漁は復活。訪問以来、飯田さんから折々送っていただく襟裳の昆布を食しながら、自分自身の森作りをと思うことでした。
しかし、その飯田常雄さんは平成17年5月29日ご逝去されました。ご冥福をお祈りします。
|